資格・専門医
- 精神保健指定医
- 日本専門医機構認定 精神科専門医
- 日本精神神経学会会員
出身・学歴
- 福岡県糟屋郡宇美町出身
- 九州大学 医学部保健学科
放射線技術科学専攻(入学・退学) - 長崎大学 医学部医学科 卒業
院長・前田輝の歩み
生まれ育ったのは、福岡県糟屋郡宇美町です。5人兄弟(全員男)の3番目として、にぎやかで、どこか競争心の絶えない家庭環境で育ちました。兄弟5人の中で大学へ進んだのは自分だけです。両親が学費を工面してくれることへの感謝と、その期待に応えなければならないというプレッシャーは、子ども心にもずっとありました。今の自分の「やるなら本気で」という気質は、その頃に育まれたのかもしれません。
中学・高校は地元の公立校に通いました。朝の満員電車が苦手で、毎朝始発の電車に乗って高校へ通っていました。ギュウギュウに詰め込まれた空間の息苦しさが、どうにも落ち着かなかったのです。今にして思えば、患者さんが「電車に乗れなくなった」とおっしゃるとき、あの感覚が少しよみがえることがあります。症状の重さは比べるべくもありませんが、あの感覚があるから、言葉の背景が想像できる——そう感じています。
高校3年生のとき、現役で九州大学医学部保健学科(放射線技術科学専攻)に合格しました。「医学部」ではなく「保健学科」だったことが、のちに自分の人生を大きく動かすことになります。
九州大学保健学科で放射線や医学の基礎を学ぶうちに、ある思いが膨らんでいきました。「自分は医師として患者さんと向き合いたい」。医学の世界に触れれば触れるほど、その気持ちを抑えることができなくなりました。大学に在籍したまま医学部受験を目指す「仮面浪人」を始めましたが、授業をこなしながら受験勉強を並行させることは、想像をはるかに超える困難でした。どちらも中途半端になっていく自分を感じながら、悩みに悩んだ末に大学を退学することを決意しました。
実家に戻り、予備校には通わず、参考書を自分で選んで独学で勉強を続けました。スケジュールは自分で組み、朝から机に向かう日々。孤独な時間でしたが、「自分で選んだ道」という感覚が不思議と支えになりました。他人のペースではなく、自分のペースで、着実に積み上げていく。その経験は、今の仕事にも活きています。
翌年のセンター試験の結果は、現役時代を上回りました。安堵したことを今も覚えています。長崎大学医学部を志望し、二次試験へ。得意の数学が本番では思うようにいかず、冷や汗をかきながらも他の科目でカバーし、面接も何とか通過。やっとのことで合格の知らせを受け取ったとき、電話口で両親が泣いていました。
長崎大学では弓道部に所属しました。学内でも有数の部員数を誇る部で、弓を引く瞬間の静寂と集中が好きでした。技術を磨くことはもちろん、部の運営に関わりながら仲間と目標を共有していくことの喜びを、この時期に学んだように思います。幹部学年では副将を務め、チームをまとめる立場として試行錯誤した経験は、チームとして医療を行うことの難しさと面白さを後に実感したときに確かに役立ちました。
大学2年生のとき、同じ弓道部の方と交際を始めました。長い交際期間を経て、後に結婚することになります。彼女が医療職であったこと、そして後の入院の際に彼女が勤務していた大学病院にお世話になることになるなど、二人の人生は何度も医療という場所で交差していきます。
医学部での6年間を通じて、「精神科」は当初、それほど強く意識していた選択肢ではありませんでした。それが変わったのは、卒後の研修でのことです。
卒業後は九州大学病院にマッチングし、内科を中心にさまざまな科をローテーションしながら初期研修を行いました。多くの患者さんと出会い、先輩医師の背中を見ながら「医師とはどうあるべきか」を日々考えていた時期です。
研修2年目に精神神経科を経験したとき、何かが変わりました。精神医学が扱う領域の広さ——感情・思考・行動・人間関係・社会的背景——それらすべてが診療の対象になるのだという奥深さに、強く惹きつけられました。身体疾患の治療は、ある意味で「正解」に向かって進んでいく側面があります。しかし精神科の診療は、患者さんと一緒に「その人にとっての答え」を探し続けるプロセスでした。
精神科医を目指すことを決め、後期研修へ進む準備を始めました。その頃、長い交際の末に弓道部の彼女と結婚。新婚生活が始まり、まもなく妻の妊娠も判明しました。仕事と家庭、両方が動き始めるような、充実した日々でした。それが一変するまでは。
デスクの上に、封筒が置かれていた。
後期研修が始まり、一年が経とうとしていた頃のことです。妻は妊娠中でした。その病院では年に2回、定期健診が行われていました。幼少期の喘息以外、これまで特に異常を指摘されたことのなかった私は、何の気構えもなく検査を受けました。
忘れもしない、金曜日の夕方のことです。胸部レントゲンが撮影された日の夕刻、自分のデスクに一通の封筒が置かれていました。「すべての検査結果が出る前に、早急に共有しておきたい」という内容でした。
封筒を開けると、レントゲン画像に関するコメントが記されていました。心臓の上に、心臓と同じくらいの大きさの腫瘤の陰影がある——と。医師として、その言葉が何を意味するかはわかります。頭の中で、可能性が次々と並んでいきました。
すぐに受診できる病院を探し、土曜日ではあったものの、ある総合病院の呼吸器内科が診てくださいました。薄々わかってはいながらも「悪性でないことを」と切に願いながら造影CTを受けました。担当医から「悪性腫瘍が疑われる」と告げられ、私が医師であることをお伝えしたとき——担当医の驚いた顔を、今でも鮮明に覚えています。
紹介先を相談され、妻が勤務していた大学病院を希望しました。年末の慌ただしい時期でしたが、入院精査を受け入れてくださいました。検査を重ねた末に下された診断は、リンパ腫 stage2b。血液・リンパ系のがんでした。
妻は早産になりかけ、子供は低体重で生まれました(その後は元気に育っています)。年始から腫瘍内科で化学療法を開始し、放射線治療も並行して行い、半年をかけた治療となりました。髪はほとんど抜け落ち、免疫機能が低下し、体重も激減しました。
医師として患者さんを支える側にいたはずの自分が、今度は支えられる側にいる。点滴の針を刺されながら、先の見えない不安の中で、医療者に言葉をかけてもらうことがどれほどの支えになるかを——身をもって知った半年でした。治療の甲斐あり、完全寛解を達成することができました。
だから、「今」しなければならなかった。
完全寛解を達成し、髪が再び生えてきた頃、医局人事に復帰しました。今津赤十字病院・朝倉記念病院・井口野間病院など、総合病院から単科精神科病院まで、さまざまな現場で精神科医としての経験を重ねていきました。精神保健指定医と日本専門医機構認定精神科専門医を取得し、クリニックでの外来診療も経験しました。
しかし、「寛解」と「完治」は異なります。ホジキンリンパ腫という病気から解放されたわけではなく、定期的な検査が続きます。何年経っても、再発への恐怖が完全に消えることはありません。検査の数値が気になる夜があります。少し体調が変わっただけで、頭の片隅に「また」という言葉がよぎることがあります。
だからこそ、開院という決断をしました。「もう少し経験を積んでから」「もう少し時機を見て」——そう先送りにすることが、自分にはできませんでした。今しなければ後悔する。その思いは、がんを経験した後から、ずっと自分の中にありました。
同時に、家族や周囲の人たちとも、深く話し合いました。自分が社会に対してできることは何か。自分の経験、自分の性質、自分がやりがいを感じる場所はどこか。考えれば考えるほど、答えはひとつでした。精神科の外来診療で、患者さん一人ひとりと向き合い続けること。それ以外に、自分が「今すべきこと」はないと思いました。
2026年4月、六本松こころのクリニックを開院しました。「朝7時から」という診療時間は、仕事を抱えながら受診しにくい方に少しでも扉を開けておきたいという思いから来ています。そして、始発電車で高校に通った自分が、今も朝が早い人間だということも、少し関係しているかもしれません。
診療に込める想い
一度、お話しませんか。
「こんなことで受診していいのかな」という
小さな迷いでも構いません。
今の不安を、そのまま持ってきてください。
一緒に考えます。
平日朝7時〜診療。WEB予約24時間受付中。
地下鉄七隈線 六本松駅 徒歩2分。
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